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おしまいか [想い]

体から怠さが立ち昇る
怠惰のもとが昇華しているのならいいのだが
一層閉じ込められた精神は
喋るのさえ疲れ果てて
ゆっくりと言葉を飲み込んでいる
この酸欠状態にも似た暗澹たる想いは
僕の岬のギリギリまで押しやる
つま先でこれ以上の行き場がないのを確認して
大声で喚きながらふらふらと落ちそうで落ちない
そんなことしていると結局落ちてしまう
ほら言わんこっちゃない
そんな最後がお似合いだとしても
可哀そうなこったと言われておしまい
もうおしまい

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新しいALP1注射薬 [糖尿病]

トルリシティからオゼンピックに代えて2か月、少し体重は減った。この薬の効果はとにかくご飯が食べられなくなること、気持ち悪くて茶碗一杯がやっと。あと、少し皮下注射が痛いこと。だけど、一遍には食べられないけれど少しづつは食べられることで感触が増える。これでは何のこと変わらないので、それを気をつけねば意味がない。やっぱり、来月には入院するべきか、そう言われているし、膵臓弱っているから。

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ちょっと疲れたよ [双極性障害]

本当の自分は面倒なことが嫌いで人の面倒など見たくもない。なのに、どうして無用な荷物を背負ってしまうのか。カッコつけだから仕方がない、いや、そんなことよりも面倒の方が嫌いなはず。なんでも、他人に押し付けるのが辛いから、押し付けているわけではなくたとえそれが本来の仕事だったとしても、すべてをやらせるのは忍びない。自分だけが楽をしていると思われたくない。相手のためにならないことはわかっているし、自分おためにもならないこともわかっている。ADHDで双極性、典型的な自己中のはずなのに、生きてきた中でそれを少しでも治そうとするあまり生まれた僕の習性。自分の喜びを他人の中に見出すことで、身勝手な自分に鎖をつける。でも、実はその度に疲弊する、使わなくてもいい心を削る。それでも、嫌われるよりいい、そのほうがずっといい。
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夕焼けグラデーション [昔語り]

昨日の夕焼けは合歓の花のようなピンクだった。そして白い雲と残った空がまるでグラデーション
そう言えば九州での夏休みの夕焼けはいつもこの色だった。休みになって友達や好きな人に会えない寂しさの真ん中でいつも見ていた色だった。毎日部活に通っていても学校と家の往復だけでそれはそれでよかったのだけど。本当は寂しがり屋だったのかもしれない、それがわからなかっただけで。最後に田舎の夕焼けの色を見たのは、村を見渡す丘の上の共同墓地の草刈りだっただろうか。もう10数年も昔のこと、総父母が眠る墓地ではるかに祖母山を望む。イヌサフランが咲いていた、また帰れる日が来たら、きっと行くよ。
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合歓の花が子守娘に見えた [昔語り]

子守に出された子供が歌った歌という、五木の子守歌やあるいは竹田の子守歌、民謡ではないがあかとんぼ、どれも哀調を帯びた夕暮れのような歌。江戸の子守歌もそうだけど、なぜか守はお土産持って帰る。これをどうとるか何とも言えない気になる。中国地方の子守歌は通常版と違った、ちょっと違った怖い歌詞もある。私の田舎にも宇目の歌喧嘩や大分地方の子守歌がある、だけど、歌喧嘩はただの掛け合い歌の用が気がするし、自分御処この贔屓しているぐらいだからなんでこんな話をするのか、私が子供の頃、おそらく最後の子守娘を見た、ような気がするから。貧しい娘さんに子守をさせていた大きな農家があった、そしてその庭で子供を背負いあやす少女がいた。秋の陽が谷間に落ちその赤い煌めきと冷たい風と、半世紀を超える昔。今は消えた村にあった景色。
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死の揺らぎが見えた [ためいき]

いま命の灯が消えようとしている
誰が悪いとか運が悪いとか
そんなことどうでもいい
誰だって未練はあるだろう
生きてさえいれば不確実な明日が
何度も何度でもやってくる
斜面に置いたボールのようだ
いつだって不安定
とにかく命が消えようとしている
生きていくことに堪えられない
微かで弱いその灯は
確かに消えようとしている

夢よさようなら愛よさようなら

春は行く別れと出会いを抱きしめて


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人波が帰ってきたけれど [昔語り]

4連休は以前のような人波が戻ってきた。ただし、非常事態下で結局、何かしなきゃ損とかほかの人もやっているし、コロナにも飽きたしではまた来た道を戻ってしまうだろう。何度かの山を引き戻したのはやっぱり誰でもなくみんなの心がけだった。実際に効果があったことは結果に表れている。人の痛いのはどれだけでも我慢できる、そんな言葉はなくなってほしい。自己責任と言う言葉でも安易に語ってほしくない、責任は自己だけにあるのではなく社会そのものにある。社会に存在するためには社会との契約を交わしている、そこに責任があるわけで、決して自分だけに帰するものではない。ああ、そんなことを言っても基本的にっ自分だけを優先する人たちには意味のない事だとわかっている。自己責任と言う人は「自己責任カード」を首から下げてもらえるとたすかる、社会と契約は結びません、だから納税はしません、社会保険は必要ありません医療は自費だけでします。
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右腕の痛み [ためいき]

右腕の外側の皮膚と腱が痛い。もうここまで来てしまうとどこそこが痛いと言ってもそれが何の痛みなのかわからない。今確実なのは右側の鼻腔が蓄膿で痛いのと逆流性食道炎で胃上部が痛い、そして慢性頭痛だ、鎮痛剤も飽きるほど飲んだ。ベンゾジアゼピン依存から脱出するために頭痛薬を飲む、いったいバカな薬の連鎖を続けていて何になると言うのだろう。抗うつ剤や抗不安薬、睡眠薬、気持ち悪くなるほど飲んだ。もしかして今ここにいるのはそのおかげかもしれないけれど、あまりにも悲しいじゃないか・そういいながら、まら鎮痛剤に手が伸びる。
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東京で見たタイサンボク [想い]

東京国立博物館に入るちょうど左側にタイサンボクの木がある。東京ではあまり見ない気がするがふるさとでは初夏の代名詞のような花だった。薫り高く、白くて気高くて大きくて明るい。僕はいつもこの時期は下から見上げていたものだった。それでも、この花を見るとずっと思う人がいます、白くて気高くていい香りがして見ているだけでうっとりしてしまう。まだそんなことを言っているのかと笑われるかもしれない、だけど忘れられないものがあって、これからどんどん闇の中に入ってもそれだけは忘れないと思う。ずっと昔に僕が一度目の闇に入ってもがいていたころのこと、長い入院が続きやっと松葉杖がつけるようになり學校への復学がかなった。けれども留年して友達もいない、部活も当然断たれた、勉強をする気もない。投げやりな日々だけが続く。それでも時間は過ぎて行く、そんな時市立図書館の玄関わきのタイサンボクが目に映った、そいて同じようようにその花を見つめる人に出会った。「タイサンボクきれいだね」「そうですね」僕はタイサンボクばかりに気をとられていたのを、ふっと思って少女の顔を見た。それは、ほっとほほ笑むほどの花の精がいた。白くて細くてキラキラ光る目がまぶしい、これほどの美しさにはもう二度と会えないと既にそう思った。だからあれから、タイサンボクの花は君との短い夏の想い出よりも長く僕の心の中にずっと咲いている。君との思い出についてはもう何度も描いただろうか、そのたびに詳細は少しづつ変わっていく。それは僕が老いてゆくことと比例している。けれど、そんなことよりもあの切なさや鼻をくすぐる香りは褪せて行かない。17歳の僕はタイサンボクに魅了され取り込まれてしまった。それは悲しみでも寂しさでもなく、といって懐かしいと言うものでもない。僕の心象に焼きついた梅雨明けの日差しそのものです。
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発達障害を身体障碍を言い訳にしている、私 [想い]

なんだか失敗や挫折をすぐに病気のせいにしているような気がする。発達障害を身体障碍を言い訳にしているとその言葉だけで自分の責任がサーっと流されていくような。こんなこと本当は知らない方がよかったのかもしれない、怪我だって確かに半年も入院したし障害も残っているけれど、それを言い訳にしちゃいけない。もっと前向きに生きなきゃ、でも今頃気がついちゃ遅い、自分には全く何の取りえもない。よりべのない人生、まだ生きてゆくのだけれど。
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